敗戦の根深さ

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    講和条約が締結するまでの間、明治政府から継がれた救育勅語をぶっ潰し、米国製憲法9条を押し付け、一国の国語文化さえ民主化を遮る害悪とし、あわよくば漢字さえ不要とし、カタカタに統一せよと、あるいはローマ字に統一せよと。その民主化とはなにぞ。
    悪魔のような空襲、二発の原爆、放置された大陸の在留邦人、軍人、されるがままの満州、半島、北方領土。
    敗戦国は悪か。戦勝国は正義か。

    皇国の保守派を潰し、追放し、民主化政治を標榜するあまり社会党を擁護し、共産主義が推挙され、挙句スターリンのスパイが公然と出入りしはじめた。自分の国を他国侵略から守る術を一切持たされていない日本に許されたものは、平和を叫ぶ狂気に満ちた無抵抗、無策という憲法9条。
    朝鮮半島に文革の波が押し寄せ、スターリンが迫ると、すかさず青森に警察を軍隊化する指令をだし、後の自衛隊になる。マッカーサー絶賛の自前憲法が瞬時に本人によって歪められた矛盾を抱えたまま、経済活動は朝鮮戦争の特需で戦後復興のめまぐるしい進歩を遂げた。
    ように見えた日本は敗戦から計り知れない犠牲をともない、また置き忘れてしまったものがあまりに多すぎる。

    それに染まり続けた多くの世代と属する私自身。知らなかったではもはや済まされない。
    手に入らない情報の方が少ない現代だから。

    昭和12年

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      1937年7月28早朝、
      頑強な城壁に囲まれたはずの通州城の城門が静かに閉ざされた…
      通州事件『慟哭の通州』加藤康男 著

      平和ボケと言われ続けて日本人はなにかに気づけたのだろうか。
      私は少なくともこの歳にになってようやく日本人としてのアイデンティティを辿る旅を始めた。何を今更、そう言われたとしても遅すぎることはない。
      寧ろそう指摘を加えてくれる側があるという事自体がこの国の救いに繋がるのではないか。
      今が平和ならそれでいいという事は決してない。
      「過ちを繰り返さない」とはそういう事ではないだろうか。

      あの日

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        1.17
        黙祷

        立ち止まってみることも

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          m(__)m当たり前の生活の中に埋もれた幸せは決して少なくない。毎朝、迎えた朝を感謝し、祈りを捧げている。
          同時に当たり前に過ごす生活の中に溢れる逸脱、危険、錯覚、過ち、歪んだ固定観念、破壊もあるのだと改めてかんじた。
          宇沢弘文先生の「社会的共通資本」が漸く興味深く読めるところにきて思った。
          王道を突き進んだ資本主義経済の足元が崩れ始め、保護主義に流れが変わり始めている。いづれも社会格差や資源争奪や、民族紛争の解決の糸口にはならないだろう。絶えず人は争い、奪う。

          もともと車社会が与える経済的関係や文明や自然社会への影響を広範にわたり分析した論旨を基点にしたこの社会的共通資本の全容は今の時代に警告として聞き取れるほど、
          私達は実は「くるま社会が当たり前」に麻痺してはいまいか。「くるま社会」を通して経済、資本、権力、自然、自由と尊厳、独立と共生を説く。またその逆の論証もあり農村の自立生産にも力強い論証も。
          本文より「自動車道路の建設は自動車産業自体の発展に対して大きな効果を持つとともに、自動車関連産業における雇用形成を誘発し、ひいては日本経済全体の成長を促進するという効果を持っていた。このことがまた人々の精神構造に対して、無視しないで影響を与えて、自動車の果たす光の部分だけに注目して、そのネガティブな側面から目をそらすと言う思考形態が一般的な風潮となっていった。」
          また、
          「ル・コルビュジェのー『輝ける都市』には人間が欠如している」
          一度立ち止まって読むべき書に出会ったと言える。

          忘れない

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            いつものように日経新聞の下欄に掲載される新刊案内を眺めながらチョイスした4作の一つがこれだった。というより真っ先に読む必要を感じたと言った方がいい。ネットで迷いなく注文し翌日には読んでいた。二日目に読み終えてもう一度読み返していた。なんども何度も泣かされた。たった一人の愛娘の命を奪われたお母さんに寄り添う思いで涙が溢れ、激しい怒りと悲しみが蘇った。
            新聞や連日のテレビで知った平成19年事件当時、私は強い衝撃をうけると共に無性に許しがたい憤りを感じていた記憶がある。事件は知っていてもそれが今、この書物によってより具体的に必然性をもってつなぎとめられた気がした。
            2007年8月24日に起きた筆舌に尽くしがたい残虐な拉致監禁殺害事件がベースのノンフィクション。と、そう書いてしまうと単に好奇の的としての読書の一貫で済まされてしまうようだが決してそうではない。忘れられずに心のどこかに引っかかっていたからだ。その理由は事件が起きた場所のほとんどが私の生活圏で起きている事が起因していた。読むほどにその自分の中に起きた動機は単純には語れないほどにあまりにもまさに私の隣で起きていた事実を突きつけた。
            犯人らが計画を練ったファミレスは打合せに何度か使った事がある。彼らが待ち合わせた場所の数々はまるで同じ時間に同じ通りを彼らとすれ違っていたはずだとさえ思うほど「身近」だ。拉致を決行した場所や通りは仕事でよく使うためほとんどの情景を浮かべられる。ましてや数日前に車でいつものように通過しているのだ。尊い命をその恐ろしい手口で奪った場所は私の出生地であり実名で出てくるレストランも家族ぐるみで行ったし、田舎ものの私には贅沢な場所でもあった。自転車でもなんども走ったし、庭そのものだ。彼らは金欲しさに恐喝相手を追い求め、現在私の住む日進にまで足を伸ばしている。死刑判決から一転無期に軽減された理不尽な展開にほくそ笑む殺人犯は、服役中に更に遡る数年前の殺人事件がDNA判定で同一犯である事が判明した。その事件現場である碧南のパチンコ店。その先に今も仕事でメンテナンスに通う客先がある。更には守山で犯した強盗殺人未遂事件。同じようにそこも仕事で通り過ぎた先に客先がある。
            ところでなぜ死刑から無期に後退したのか。被告側弁護団が立てた精神鑑定は社会矯正の可能性を訴えたことも背景にある。矯正?判定を下すその男は過去にも人を殺めていたのだ。精神鑑定とはいったいなんなんだ?

            今は亡き彼女が通った大学の記述にも胸の痛みを感じた。大学生活に意義を見出せず思い悩んでいたであろうまさにそのころ、大学の境界線を挟んだ市の公共施設は毎月携わった仕事の現場だった。
            あまりに奴らの近くにいた現実に正直、吐き気がする。
            意味のない憤りかもしれない。何一つまとを得ない表現なのはわかっている。だが言いたくなる。「そんなに近くにいたのに彼女を助けてあげられなかったのか。庭のように知り尽くした場所でなぜ気づいてあげられなかったのか」
            全くの他人だから当たり前なことだ…
            ただお住まいだった集合住宅の近隣住人の方々が今も掲示するメッセージが自分の思いに重なる。「身近にいて気づいてあげられなくてごめんなさい…」
            この本を読み、というより事実の数々を明らかにされ、ますますその思いが強くなるのは、母娘のありのままのどこにでもある、愛に満ちた普通の暮らしを一瞬にして奈落の底に突き落とすその恐怖と悲惨を克明に伝えてくれるからだけではない。
            陰惨なこうした事件に厳然と立ち向かうために、司法のあり方を改めて私達に問うものでもあると思う。まだ先日1審の公判が終わったタイミングで発刊されたこの書簡は現在、第二審を待つ。行く末を見守るため、私は決して忘れない。


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