交通事故

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    ネットやテレビなどあらゆる発信源から悲しい交通事故のニュースが連日絶えない。

    運転する側としても道路を歩く側としても、双方の危険度が増しているようで恐ろしくなる。

    狂ったように猛スピードを出す者、未だに飲酒運転する者、煽り運転で虚勢をはる者、年齢による衰えを認めない者…

    事が起きてからでない限り、彼らは私と同じ立ち位置にいて同じ日常を過ごす。車が恐ろしい凶器になる事をほとんど忘れたように。

    以前、故宇沢弘文教授の社会的共通資本から車社会がもたらす不合理な社会生活について触れたことがある。その指摘を改めて浮き彫りにするようなこの頃。
    仮に前述した運転者の傾向を必ず起こり得るものとして否定しなかったとしても、日本の道路環境や拡張工事の主義は

    第一に車中心である。

    第二に人間である。

    自動車優先でその道路の余地を利用して限られた設計で生身の歩行者の営みの安全を確保しそれをよしとする。急に途絶える歩道、遮る電信柱、路肩さえない道路など身近な諸問題の対処さえ悉く遅く、それすら人の側から適応し、半ば遠慮がちに過ごす。車が走りやすい道路とは人にとっては危険な道路だ。
    その環境を支えるのも自動車による社会的経済活動の旺盛な循環を止めることができないからである。それどころか私たちを取り巻く社会環境は自動車が主役である事に疑問さえ浮かばない。その是非を問えば返って疎外される現代の姿がある。

    鉄の塊が20kgで歩行者にぶつかっても無傷では済まない。右肘をちょっと伸ばすだけぶつけてしまうような近距離を車は当たり前に走り抜けていく日常がある。


    その道路を歩いた園が悪いのではない。当然運転者は過失致死に問われるだろうが園を責めて何かはっきりするのだろうか。危険予知を当たり前のように求める道路環境そのものが身近に溢れかえっている事が現代社会の麻痺した部分ではないだろうか。車が通れない道の方が少ない。人だけが安心して歩ける道もほとんどない。経済活動の主役は車ではなく人。優先順位が狂った社会に安全はない。ましてや不完全な人間がその車を操るのだから。

    連休にはいった初日に空港へ移動中、一時停止をノーブレーキで横からダイレクトに突っ込まれた。孫や娘、家内も大事に至らなかったことは不幸中の幸い。左前輪は折れ曲り妙な角度のままなんとか立っていた。ドアは前後共にえぐれて相手の車両前部が食い込んだ形跡を残している。いまでも左側から突然押し寄せる黒い車体の映像が焼き付いて離れない。車社会に完全に依存した私達の生活はクルマ社会がもたらす危険が増えている。現代人のモラルの低下を否定はしなくても経済発展と共に道路は血脈のように広がり、人の優先度は益々忘れ去られていくばかり。





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