0
    何故だろう。
    平均71kg前後で長年きた体重が
    66kgを切ってしまった。
    体脂肪率が12%

    食べているのに。
    この2年で半年毎に減っていく。
    初の65kgで驚いた。
    どこもおかしくはないのに。
    老いてんだな。

    Q援隊

    0

      改めて製品についてこの場で触れるのは、或いは余りに誤解があるかも知れないと感じたから。
      つい先日、熊本の災害復興の関連からQ援隊が導入されたとの報せを受け
      大変お役に立てているようで心から嬉しく感じた。
      あってはほしくない災害だが、インフラが被害を受け、家庭の水道から水が出なくなることがある。そんな時「水源確保」は優先課題のひとつ。無論飲み水ではないにしても生きる上で食料と等しく不可欠だ。
      家庭用配管とは別に私設消火栓は頑強な配管で別に確保されている事をどれくらい認知されているだろう。農地用水路の消火栓も含め貴重な水源路がそこにある。当然災害規模によるのだとしても消火栓の大きな構造物を見て水を連想する事も馴染みがない。また緊急用の大口径ゆえに当然勢いよく飛び出してくる。バルブは固く、力一杯開けると一発水玉を食らう。微調整も効かない。水源として確保できたとしてもいざその時、老若男女問わず列をなして持ち前の容器なりペットボトルなどに滞りなく水汲みできるだろうか?否。微調整は効かない、大口径ゆえに方向性も定まらない。意外に微調整こそ思わぬ方向に水が飛び出してくる。消火活動という側面からだけ考えるのではなく、災害ライフラインとしての水源確保を考えた場合、真冬の寒い日に水汲みひとつで濡れたくはない。寧ろ濡れてはならない。着替えは?靴は?タオルは?ハンカチは?当たり前のモノが当たり前にない災害時、Q援隊は簡単に嵌める事ができ、台所の蛇口と同じ器具から普通にひねれば水が出てくる。バルブを両手で力一杯回すことなく、小さな子供だってできることだ。

      地域のコミュニティにひとつあるだけできっと役立てるはず。
      清掃業界におけるマンション清掃のツールだけではない別の意味で

      なぜネーミングが「Q援隊」なのか。改めて発信の拡がりを期待したい。


      聖夜のメッセージ

      0

        「高価だったけど木の時からすぐに買いました。

        やっと今日新しいのを見つけられました。」

        弊社のブラシ第一号機が歩みだしたのは13年前の冬、ちょうど今頃になる。

        あれから4世代目となる現在のアルファを探し求めてたどり着き

        「これなくしては仕事ができないのです。」とお電話で。

        製品名も商流形態も当時とは違うため探すのに一苦労があったようで。

         

        心温まるメッセージとして胸の奥にたどり着いた。


        無関心の功罪

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          真珠湾から74年余りになる。この大戦を通してしっかりと理解しなければならない多くの『戦争の理由』について、大量の公文書の公開、秘録の数々、証言記録などが国際的にも一般市民のレベルにまで到達されるようになってきて久しくない。
          読み重ねる内に感じた恐怖は、かの大戦の背部で暗躍した共産主義による革命プロレタリアート。
          思想、信教信仰の自由、人権とそれらを尊重する憲法と国体などに包まれた世代にとって、マルクスレーニン主義はよその国の社会活動に過ぎないという無関心の中に埋もれている。
          資本主義経済は完全ではない、だが共産主義社会も完全ではない。「人間」がそれを織り成す上で共通するのは、どんな社会格差がうまれて民衆の不満が暴発寸前だとしても、自由と人権を抑圧される事は人が欲するところではない。だとすれば世界中で社会主義国が崩壊するようにたとえ資本主義経済が問われる現代においてもまだ資本主義経済の方がマシだという事になる。つまるところそんな微妙な安堵感に入り込みやすい革命思想なのではないか。民衆の不満に賛同し、擁護し、戦争に持ち込み、経済力を疲れさせる。そして乗っ取る。不安を抱えた人に寄り添いいつのまにか集団の中で生き甲斐を感じさせるカルトに似たもの。殆どの民衆が陥りやすい事を知り尽くしている。そういうと言いすぎだろうか。殊に『自由』を叫ぶ集団ほどまさにそうではないか。
          あの大戦で勝利したのはアメリカではなくソヴィエトだった。の一文が焼き付いつて離れない。


          働くこと 給料

          0

            人材を確保し、育成するために
            給料の算定額をどれくらいにするのかを
            労働の内容や質量で左右されるのはよそうと思う
            給料に見合った労働を期待するあまり、
            その金額で一人格そのものを買い取った事と同じ感覚ではないかと思えてくるからだ
            算定額の価値は彼そのものの価値ではない。

            彼の尊厳は図れない。私とて同じことだ

            彼は奴隷ではない 彼の労働に感謝するから給料を贈る

            そう、贈り物で彼の生活を支える それがいい
            そもそも、労働は社会全体のため、ひとさまのため、

            そうやって支え合う仕組みの中で一要員として参画している

            実は働くことと算定額は別の視点で考えることかもしれない

            でなければ一向にしてお金のためだけに働くことがまかり通る世の中になってしまう

            たとえ世の中がそうであっても私には背負いきれない仕組みだ

            仕事とはひとさまのために働く事 実にわかりやすい「働く」というテーゼ

            いいもの作ってくれてありがとう 素敵なサービスありがとう

            おいしかったありがとう 素晴らしかったありがとう

            いろんなありがとうで支えられて成り立つ社会
            そこに私も彼も何の違いがあるものか 

            その労働は誰のために役立っているのか

            それが役に立っている感動をまずきちんと伝えることが先だろう

             



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